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rainfiction

アマチュア映画監督 雨傘裕介の世に出ない日々です。

「中央線ドロップス」元町夏央

中央線ドロップス (アクションコミックス)

中央線ドロップス (アクションコミックス)

本腰入れて書評でも。


どうして武蔵野の夕方の車窓はこんなにも心をくすぐられるのか。
夕日を背景に、シルエットになったよみうりランドの観覧車。
背の低い町並みが一生懸命夕方の光を反射している。
頼りない列車は進んでいく。あの人もこの人も僕も載せて進む。


そんな外出を経て仕事を終え、本屋に入ると平積みになったマンガが
ふと目に入る。
「中央線ドロップス」元町夏央


これまたあざといタイトルつけるな・・・と思いながらも手に取ってみる。
少し悩む。買う。
決めては表紙のJKが魅力的だったから・・・というわけではないが、
好感の持てる絵柄だ。そして何より「中央線」だからだ。


結論から言うと、僕はこの作家にエールを送る立場を取る。


で、日が沈んでしまった日暮れの電車の中で読んでみる。


まず絵柄。アクションコミックスは正直守備範囲ではないが、劇画すぎず、かつポップすぎない絵柄。巧い下手ってよくわからないけれど、描きたいものを表現するのに適切な絵柄だと感じた。女の子は可愛い。ちゃんと書き分けている。当たり前か。
アクションというと「鈴木先生」という少しアクの強い(いい意味で)を思い描いてしまうのだが、あれはどうも好きになれなかった。なので1巻しか読んでいない。
しかしこちらは、うまくデフォルメされた各種形容詞を表現している気がする。要するに劇画すぎない、メジャーなマンガの絵柄だってこと。


そんなファクターを有するこのマンガの作劇を考えてみる。


中央線を舞台にしたマンガというのは、星の数ほどあるわけで。
名作「西荻夫婦」にせよ、・・・にせよ・・・ってパッと思いつかないけれど、タイトルにしている作品も多かろう。
ましてや、中央線各駅を舞台にした短編連作、なんてアイディアが今までどのくらいあったかって話ですよ。
で、「あざとい」と思ってしまうのである。またかよ、と。
なんと、短編連作の一発目は「吉祥寺夫婦」。え?となり?
そんなニワカ評論目線で読み進むわけです。


第一印象。
よくあるドラマ。
目新しい試みや、実験的な展開や、ぐっと引きつけるキャッチーな展開は望めない。
帯のアオリにあるように「揺れ動く人間たちの日常を描いた」ドラマである。


例えばセックスレスの夫婦や、シングルマザーの親子、高校生の自己実現と現実の狭間での恋愛、東京を離れる大学生の心境などなど、どっかで見たことのある設定とドラマの展開である。もちろんそれが悪いわけではない。重要なのはどう見せるか、である。
その点、この作家の個性が垣間見える。

ドラマを繰り広げるのは登場人物である。それは当然。
で、作家自身の考えるドラマを投影する。それもまた当然。
しかしながらこの作家には投影された葛藤が見えない。うまく隠している。あるいは、作家の外部にその陰影を求めている。
これは重要な点である。


いかに葛藤=ドラマを展開するか。それが所謂我々の言うドラマであって、葛藤そのものではない。そう定義してみよう。


展開そのものは普通。普通すぎてつまらない。そんでもって解決しない。
葛藤は葛藤のまま、登場人物の中と周囲に留まる。

この対比。評価出来るとしたら、この点である。
あとがきマンガに、中央線で見かけた人々のドラマを書いてみたらどうだろう、という発想が書かれている。
ああ、そのとおりなんだろうな、と思う。
ドラマの出発点は、作家の外部にあるのだ。


ちょっとしたファンタジー(熊と同居する高校教師とか)や、非日常にそれを求めたとしても、
読者は傍観者になる。作者もまた傍観者なのだ。
だからちょっとウソっぽい。
僕らの作るフィクションの、立脚点は、ほんとはそれでいいし、
それがちゃんと描ける人は思ったほど多くないのかもしれない。
スケッチとしてのマンガの見せ方が、なんかかえって新鮮で、好きになった。
巧さはまだまだ。でも、見開きが巧い。


というわけで、おおむね、好きなマンガだ。


浅野にいおの作品みたいに、「若者の自意識とファンタジー、フィクションと青臭い悩み」を全面に押し出した
ヴィレッジヴァンガード一押し!みたいな作品よりも好感が持てる。

無骨な漫画家になってほしい。無骨で人間味のあるマンガを描いてほしい。