rainfiction

アマチュア映画監督 雨傘裕介の世に出ない日々です。

桐島、生きとったんかワレ!−「桐島、部活やめるってよ」−

桐島、部活やめるってよ」を鑑賞。


※「Another」のスチルではありません。



結論から言うと「未熟だった世界が終わり、新たに世界が広がるモノ」の大傑作だ。
そして僕は「未熟だった世界が終わり、新たに世界が広がるモノ」が大好物だ。


当ジャンルのフォーマットは極めて単純で、「ある(狭い)価値観、社会観に縛られていた登場人物が、作品内で描かれる経験を通じて、成長し、世界を違った目線で見つめることができるようになる」という、いわゆる普通のドラマの基本構造そのものである。
「違った目線で見つめることができるようになる」といった描写、展開に重きを置いた作品がつまり(略して)「世界広がりモノ」に属するのだが、これは主に、主人公がその役割を担っている。当然である。


彼は作品内で成長し、そして過去となった世界を見つめる。感慨深く眺め、新たな世界へと羽ばたいていく。
そして、必ず、そこには喪失・別離が伴う。伴わなければならない。少なくとも、過去の世界の喪失あるいは過去の世界との別離が含まれる。
主人公不在では成り立たないフォーマットである。観客は主人公に自らを仮託する。主人公を通じて、新たな世界を目にする。
その前のめり感が充分要素なのである。


しかし、今作「桐島、部活やめるってよ」では、その前のめり感が消されている(残っているが、うまく消されている)。
なのに、静かなダイナミズムを有しながら、登場人物の世界の変容っぷりを、劇的に見せつける。
そのバランスが見事なのだ。


だからこそ、僕は本作を「未熟だった世界が終わり、新たに世界が広がるモノ」の大傑作、と評価したい。
しかも本作においては、世界の広がりは残酷な意味を持つのだ。
以下、ネタバレを含みます。




さて、「桐島、部活やめるってよ」、略して「桐島」。
Twitterのタイムラインをはじめとして、公開直後から絶賛の情報が飛び込んでくるようになった。観た人の過剰なまでの好反応。
タイトルに惹かれて原作のハードカバーを手に取り、少し読んで売り場に戻した程度の興味から、「この映画、必見」という興味に至るまでのゲインっぷりは、まさにネットの好評ぶりに後押しされたものに他ならない。ネットの好評がないと、おそらく劇場へ足を運ばなかっただろう。自らの不徳を恥じる次第。


土曜昼間の回は、思ったより人が入っていて、観客は若い年代がほとんどだった。「うぇーいw」と言いそうな大学生もちらほら。彼らもネットの好評を受けて観に来たのだろうか…。うぇーいw。
おっさん一人で観にきて大丈夫か?という同調圧力にも負けず、しっかり観ました。う、うぇーいww


鑑賞後、そんな同調圧力に敏感な態度こそ、本作において描かれた高校生の群像の根底に流れる深い心情の一つであることに気づかされる。


桐島の不在により、スクールカーストの上位に位置する人物は動揺する。桐島の彼女、桐島の親友(帰宅部)、彼をキャプテンとして頼っていたバレー部チームメイト。彼らは理由もわからぬ桐島の離脱によって乱される。彼らの、無為ながらも輝かしい高校生活を担保する存在であった桐島の喪失が、彼らの高校生活を変容させてしまうと察したからだ。


一方、スクールカーストの下位に属する文化部連中は、桐島には全く関係がない。最終的には影響を受けるけれど、直接揺さぶられたりはしない。というか完全にとばっちりを受ける。イケてるか、イケていないか。笑う側か、笑われる側か。その二項対立をとりあえずの軸として、金曜日から火曜日までの5日間が、複数の視点から描かれる。


スクールカーストものの傑作、という評価もあるようだが、スクールカーストものと断じないほうが良いと感じた。イケてない奴が文化祭でヒーローに!といった安易な展開を連想させるからだ。ジョックス対ナード、などといったはっきりとした対立構造は、本作では設定されていない。登場人物のそれぞれは、自分と周囲の属する階層を意識はするけれど、乗り越えたり転換したりしようとはしていない。下剋上は誰も望んでいないのだ。


映画部員の武文がサッカーできる奴らに対して
「体育の授業で何点取ったってな。無意味。Jリーグとか行くんだったら別だけど」と愚痴り、涼太から「言えよ直接」と突っ込まれ、「言わない。好きなだけ不毛なことをさせてやる」と不敵に笑う。


宏樹を眺める亜矢のまなざし。立ち位置と場所。


クライマックスのゾンビの反逆。涼太の反逆。
「ロメロだよ。それくらい観とけ」という、映画部文脈における最高の罵り。



桐島を導師とする世界と、イケていない世界は基本的に断裂しており、階層が意識される描写はさほど多くない。しかしそれぞれの階層において、彼らの問題とその反応が丁寧に多重に描かれることで、階層が重なる屋上のシーンはクライマックスたりえる。
そして、その断裂を(きまぐれに)乗り越えようとしてくる存在は、お互いにとって、ちょっとした希望になる。心から望んでいないにせよ、世界を広げる契機となる。


田舎のショッピングモールに併設されたと思しき映画館で出会う、私服姿のかすみ。


涼太にとって、彼女のきまぐれはかすかな希望だったのかもしれない。しかし、すぐにそれは幻想であったと気付かされる。かすみがクラスメイトと付き合っていると気付いたそのあと、はっきりとしたリアクションを描かず、その絶望を幻視としてのゾンビ映画で表現する。その巧さ。
かすみを撮りたい、と願い続けたであろう涼太の願いは、夕暮れの屋上で、ゾンビに喉を引き裂かれて死んでいく。美しく死んでいく。断裂は断裂のまま、階層は階層のまま、埋まることも超えることもできず、ただ願望だけが残って、幻視=ゾンビ映画として映し出される。吹奏楽部もその幻視に加担する。この巧さ。
最高です。


一度は超えた屋上の扉のこちら側へ、戻ってくる宏樹。


階層の交わりの余韻。話したこともないようなかっこいい奴が、自分に興味を持ってくれた。ちょっと喋りすぎてしまう。


ここで物語のバトンが涼太から宏樹へ渡される。


一度は超えた屋上の扉。戻ってカメラのフードを渡す。
ドラフトまでは野球を続けるキャプテン。映画監督になれない、と思いながらも、想いをこめて映画を撮っている涼太。
ではお前はどうだ?と問われる。試合にも呼ばれなくなった。来てくれるだけでいいと言われた。


そもそも、桐島はどうだったんだ?何を考えていたんだ?
世界は、自分がダラダラと過ごしていた、彼女アリ、友達アリの世界だけではない。同調圧力になんとなく流されていた世界だけではない。


桐島は世界のどっかで、何かを考えながら、生きている。
知りたくて、宏樹は桐島に電話をかける。野球部の練習の声が残るグラウンドを眺めながら。白フェード。


僕は、クライマックス〜ラストを、以上のように解釈した。
そして、『これは!「未熟だった世界が終わり、新たに世界が広がるモノ」の大傑作やでぇ!』との確信を得るに至ったのである。世界は変わらずとも広がるものなのだ。主人公たちは前のめりに戦おうとはしない。乗り越えようとはしない。しかし微かな契機を得て、自らの世界を変えるに至る。この温度と態度が、30歳を過ぎたおっさんにも力強く響いてくる。
惜しむらくは、僕のような観客にとって、そんなことが許される時間はもう過ぎてしまったということだろう。高校時代ならではの問題意識と言える。ボンクラのままでいられることに、希望を見出してるだけではいけなかったりする。


かつて、先輩に「世界を広げたいんですけど、どうすればいいんですかねぇ」と問うたことがあった。
「そんなもん、大久保のロシア人の立ちんぼに価格交渉でもすりゃ一発よ」という答えが返ってきた。
意訳すれば、何事もチャレンジよ、ということだったらしいのだが「ハードルたけぇww」とおののきながらも「そういうこともあるかもな」と思うと同時に、そんな考え方もあるのだな、と、その答え自体が世界を広げる契機になったことがある。


そんなこともあるのかな、という微かな契機。
それをドラマチックに描き出したこの作品は、僕の大好物である。


さて、余談だが、映画が良かったので原作本を読んでみた。
野暮と知りつつ、映画と原作の相違点を書き出してみようと思う。
原作読んでない人は、例によってネタばれですので注意。

  • 桐島が部活をやめたことは、大した事件ではない
  • バレー部の風太リベロ)は桐島がやめたことによって、ノリノリで試合に臨む。バレー部もノリノリ
  • イケてるグループの女子の間に隠された確執がない
  • 映画部はコンクールで特別賞を受賞している
  • 涼太とかすみの中学時代の親交が具体的に描かれている。きっかけは「ジョゼ虎」
  • 亜矢(吹奏楽部)が惚れているのは竜汰(パーマのやつね)
  • 亜矢は部活仲間とそれなりに充実してるっぽい
  • 映画部の涼太は中学時代に放送部で文化祭のOPを作り好評を博すなど、一定の評価を得ていたりする
  • 映画部の愛読誌は「映画秘宝」ではなく「キネマ旬報」(!)
  • 映画部の次回作制作に向けた制約は存在しない
  • 映画部の武文は岩井俊二犬童一心が好きで、青春映画を志向している
  • 映画部の次回作はなんと青春映画。バドミントン部の練習風景を隠し撮り。かすみが映ってテンションMAX
  • ゾンビの「ゾ」の字も出てこない
  • 実果(映画ではバトミントン部の子、原作ではソフト部)が、家庭にどえらい問題を抱えている。姉の死とアイデンティティのお話。


こうして書くと、今回の映画の脚色の基本方針は、登場人物を「何かを欠いた存在として再設定する」ということだったのかもしれない、と思わされる。桐島を欠いた連中、文化部としての達成感を欠いた連中、恋人がいるのが当たり前の中で、恋をしている連中。彼らはそれぞれに、絶対的に何かを欠いている。8ミリカメラはその象徴だったのかもしれぬ(深読み)。


映画において、欠落を免れていたのは、ただ一人、かすみだった。だからヒロイン足りえたのかもね。
原作を読むと、映画の脚色の巧みさがさらに際立つ。原作の空気感を保ちながら、キャラクターの配置、エピソードの再構成、物語の牽引力の付与。これらがいかに丁寧に行われたかが分かる。映画を観た方にはぜひ一読をお勧めしたい。


というわけで、まとまりのない感想を書いてみた。
あまりに完成度が高いので、登場人物どころか吉田大八監督に感情移入し、ラストカット後のタイトルバックで、ドヤ顔を浮かべてしまった。完成披露試写会で、キャスト・スタッフに対して浮かべるドヤ顔である。こんな映画を撮っておいて、にやりとしないわけがない。


自分が撮ったわけでもないのに、異常なまでに達成感が得られる珍しい作品だ。

そして、そんな心象こそが、映画を撮りたくても撮れない、僕がボンクラたる所以であろう。


橋本愛みたいな子と映画の話が出来たら、そりゃ惚れるよね!
高校時代のネクラかつプライドの高い自意識を追体験したい人にもお勧めの大傑作。


あと、8ミリフィルムの撮影に興味を持ったあなた、この時代における8ミリ映画制作はマジでおすすめしません。
劇中のごとく、カメラが壊れたら、あんなに冷静ではいられません。