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アマチュア映画監督 雨傘裕介の世に出ない日々です。

最近ブックマークした記事/自由に書けるのだとしたら

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職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)


文章上手だね、と言われることとお前の書いたブログ面白いね、と言われることとブクマが伸びる、ということと数百万部売り上げる国民的作家が書いたエッセイが出版され本屋に並ぶこととの違いについてぼんやりと考えてみる。ほぼ同時期に上に連ねた情報に一度に触れてしまったためだろうか。自分にとって「書くこと」とは何か、書いたものを評価されるとはどういうことか、様々に考えを巡らせてみたりした。でも結局答えはない。書いたこと、つまり文章としてまとまった情報に大して、上手だね、読ませるね、興味深いね、という評価はとてもまっとうで、書き手に対する正当な評価になり得る。評価する側にとって「言語化できないけどなんかいい」という感慨が「読ませる」「文章うまい」という言葉として表現されて書き手にプレゼントされるのを何度も見てきた。
ブコメ、特に匿名ダイアリーの評価の出端は「文章うまい」が多い気がする。その言葉が書き手の心と承認欲求をくすぐる。言語化できない「なんだかいいね」という評価であればあるほど文章のアマチュアは有頂天になり、さらに評価を求めるようになる。批評にならない潜在的な評価、すなわちPVやらブクマ数やらを真に受けて、書籍化、マネタイズ、ブログ飯、やがて高知に向かうなどの動きを見せる。アルファブロガーとして承認欲求を満たし続けるのか、名もなき増田やブックマーカーとして世を泳ぐのか、ブロガーたちは形而上的な高知を目指す。文章うまい。まるで小説のような読後感。読ませる。もっと書いたものを読ませてほしい。これらは書き手を酔わせる文句のほんの一例だが、これら以外はただのバリエーションにすぎない。作文の宿題で先生に褒められたのと同じだ。作文というフィールド、それはすなわちブログだろうがTwitterだろうが、文字をやりとりするメディアにおいての評価である。ブログを書こうとする人間、特に自分の文章力に自信を持っている人間は、少なからずそうした経験は持っているに違いない。さてそうした評価の対極に、文章を書くにあたって重要なこと、ブログや私小説などの自分が発信し責任を持つメディアに文章を書くということの大原則である「自由に書く」というコンセプトが座している。白紙を前にして心を踊らせることができるのか。自分が今から何を書いてもいいと喜べるのか。評価など気にしない、自由に書く覚悟に多幸感を得られるか。それを意識していられるかどうかで、文章の質が大きく左右されると思うようになった。もちろん内容に責任はあるし、マナーもモラルも品格も求められるが、原則何を書いてもいい、というネットのフォームに自由に書くのだとしたら。自由はまさに制約になり喜びにもなる。うまくいけばビジネスチャンスもキャリアの転換も生じるだろう。自分という人間の評価を忖度するようなブログもあるだろう。文章巧いねよくできたね、はそのままお金になり得ないが、その評価の先にある嘲笑も侮蔑も批判も覗き見も、すべて(自分にとっての)成果に変えていかなければならない。ブログで生きたり、ブログで評価を得つづけたりするということはすなわち、言葉にならない評価をかなぐり捨ててもっとブクマをもっとスターをPVを、ついでにアフィリエイト収入を、というゾンビ化を伴う。多かれ少なかれ。それはもはや自由ではない。自分をかつて評価してくれた「文章うまいね」という牧歌的な評価ではもう満足できなくなる。だとしたら、自由であろうとするのならば「文章うまいね」「読みました」という評価以上のものを求めてはならない。それがあればありがたい、という謙虚な気持ちが大事だ。なぜなら自分は自由に書いていて、それだけで気持ち良く楽しい(べきである)からだ。それをたまたま目にした人が目を通して、自分に声を残してくれるなど光栄至極に存じます、という姿勢こそが、自由であるために必要なものではなかったか。そう考えると、評価を得ることを前提に書いている文章は不自由からのスタートである。所詮ただのパーソナルメディアだ。評価など得ようとも得られるものではない。僕自身、この数年間はビジネス文書やメールを書くばかりで、パーソナルメディアに文章を書こうとすると(いつの間にか)どうしても「評価」を第一義として書いていることに気づいたからこそ、上記の内容が問題意識に響いてしまったのだ。自由というコンセプト、何を書いてもよいという赦しを原則的に僕らは得ている。書き始めてから考えるといい。ゾンビになるために書くべきではないのだ。最初から分かっていてあらためて気づいたこと。当たり前すぎて忘れていたこと。これまでどっかで何度か「文章うまいね」と僕に伝えてくれた方々に感謝し、「まあそうでもないぜ」と謙遜しつつ実際のところそういう評価を得たくて自意識過剰になっていた自分に喝を入れつつ、改行もせずにマッドな文字のひとかたまりを書いてみたいという欲求に即して書いてみた。何かに仕えるために書いているのではないのだ。世の中の余白によだれを垂らしてしまうような書き手になりたい。余白は高知にも、コンビニにも、はてなにも、手元のノートにも無尽蔵に広がっている。誰かが手にするその自由の結果を僕は見たいし、時々評価もする。文章うまいね、と言いながらなんとか言語化した批評を試みる。自分に向けられる評価もまた自由のその先にある。世界中のサーバーがダウンして、ネットワークが分断されてスマホが爆発して、世の中の本が燃やされ、紙が作られなくなるまで、書く自由と責任と頼もしい余白は僕らと共にある。「何を書こう。何でも書ける」。そんなフレーズを聴いて、勇気が湧かないなら書くのをやめてしまえばいい。


というわけで改行しないのはわざとですスマン。

竹易てあし漫画全集 おひっこし (アフタヌーンKC)

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