rainfiction

アマチュア映画監督 雨傘裕介の世に出ない日々です。

異人との夏−「劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」−

「劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を鑑賞。


チケット買うときには「あの日見た花のなんちゃら1枚」と言いました。


さて、劇場版、と名がつく作品は、いつからか「劇場版(笑)」と揶揄される風潮がすっかり出来上がってしまい(例:劇場版「スシ王子」)、かつては「劇場版=TVシリーズで人気を博した作品」であったものが、今では「劇場版=とにかくなんか売上を少しでも伸ばすための約束された手法」となっている。「祭り」としての「劇場版」は、製作される作品のほんの一握りと言えよう。


僕自身、劇場版と題された作品をわざわざ観に行くには、よほどTVシリーズを堪能したか、あるいは単体作品として評価が高いか、それなりの条件がなければならなかった。TVシリーズの劇場版では「涼宮ハルヒの消失」を最後に観ていない。
※「踊るFINAL」や「真夏の方程式」は観たが、これはまあ、すでに劇場映画シリーズとして確立しているから除外。


アニメの劇場版といえば、古くは機動戦士ガンダム宇宙戦艦ヤマト、そして我ら世代の金字塔「旧エヴァ劇場版」に代表されるように、TVシリーズ総集編からの新作ストーリーでシリーズを補完し、真のラストで完結する、というひとつの伝統芸能だ。しかもそれで前後編、三部作などザラである。観るものには大きな期待と満足を与える一方、観ないものには「不完全な視聴者」というレッテルを貼るというえげつない商法。
ゆえにアニメ劇場版を観るものは、製作者側の姿勢を常に疑い、「これは本当に観る価値のある映画なのか」と自問しつつも、結局はTVシリーズに対する熱意だけで観てしまう、という一つの情けないプロセスを経ることになる。それもまた世代を超えて受け継がれる伝統である。


では、「劇場版あの花」は劇場版(笑)であったかというと、そうでもなかった。
よくできた総集編ではあるが、ひとつの新作として、丁寧に作られていた。

以下ネタバレあり。

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ふたつとない作家性−「宝石の国」−

市川春子宝石の国」第一巻を読了。



個人的に、手塚治虫クラスの書き手だと勝手に認識している市川春子の最新作にして、はじめての連載作品。
デビュー作品集『虫と歌』が第14回手塚治虫文化賞新生賞を受賞したからってわけでもないが。


話運び、ファンタジーとSFの境目にひっそりとはまるようなジャンルレスなモチーフ、そしてシンプルだが美しい絵。


どれをとっても独特で、「こんな漫画は読んだことがない」と思わせられる作品たちである。


これまでの作品では、必ず人ならざるもの、あるいは人と何かの性質が合わさった生物が必ず登場する。その「人ならざる者」の性質がドラマを生み、不思議な感情を沸き起こす。
偏った愛と嗜好、あるいはフェティッシュ。作者本人がそれを何気なく作品に落とし込み、美しく作品を満たしていく。


そんな作品を書く作家が、ついに連載を開始。読まない訳がない。ついでに単行本も買わない訳がない。

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オマエら皆殺しだから−「デストロ246」−

高橋慶太郎デストロ246」第1巻を購入&読了。

面白い!

あらすじは以下のとおり。Wikipediaより。

実業家の透野隆一は、家族を毒殺されて、復讐のために生きるようになり、南米の麻薬組織から少女の殺し屋を2人購入した。透野は2人に「翠」「藍」と名付け、日本に連れ帰る。来日した翠と藍は隆一の意を受けて、暴力団を次々と襲い嬲り殺しにしていく。その過程で2人は、政府機関の殺し屋である少女「伊万里」と、毒を使う女子高生の暴力団組長「苺」、その同級生兼護衛である「蓮華」「南天」と出会い、アサシンキラー(殺し屋殺し)として抗争に身をやつす。 物語は東京で発生した殺し屋達の闘いの経緯を美濃芳野がレポートする形ではじまる。

作者コメントには「女の子しか書きたくありません」という叫びから今作が発生したとある。
そのとおり、主要キャラはすべて女性、しかも未成年と思しき女子高生たちである。

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猫になりたい

昔、実家にいたころ、猫を飼っていた。


小学3年のときに、家の裏の駐車場で遊んでいると、小さな鳴き声が聞こえてきた。家の縁の下で小さな三毛猫がうずくまっている。僕が少年期特有の向こう見ずさと好奇心で、何も考えずに抱き上げると、低いのか高いのか、唸るようにか細い声で鳴いた。兄と友達に囲まれて、僕の腕の中で鳴いたその声、体温を僕はよく覚えている。

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甦れ!「あの感じ」!!−「宇宙刑事ギャバン THE MOVIE」−

宇宙刑事ギャバン THE MOVIE」を鑑賞。



Twitterのタイムラインでも鑑賞したという人を見かけなかった本作。
公開から2週間が経とうとしていたので、この機会を逃すと劇場でギャバンを観ることなど一生叶わないのではないか…という不安に駆られ、最寄りのシネコンへ駆け込んだ。


久しぶりに映画をハシゴしており、直前には「アルゴ」を鑑賞している。
冒頭から「アルゴ」との作品レベルの落差にクラクラしてしまったが、TVシリーズ(1982年)ド直球世代には、まあまあ楽しめたのであった(放映当時は4歳)。


もちろん、期待を裏切らず、映画として欠点・欠陥はありまくりである。

しかしそれを訳知り顔で批判することは憚られる。
この時代にギャバンを、メタルヒーローを復活させたことが偉業!であり、「ギャバンなら多目に見るぜ!」という我々世代の想い、そして態度を見切った上で、制作陣はあえてこのクオリティレベルを選択したようにも思える。

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わが青春の牙突−「るろうに剣心」−


るろうに剣心」を鑑賞したでござるよ。


※悪・即・斬!No More 映画泥棒!!


鑑賞から一週間が経ったが、興行収入も好調で、世界での公開も予定されているようだ。大ヒット御礼!ワーナー御礼!!


そんなムードになるなんて予想していなかったんですが、予告を見る限り「これは(意外と)面白そう!」と感じたので、観に行った次第であります。


「なぜ今、るろうに剣心を実写化!?」


映画化のニュースが流れた時、ほとんどの人はそう思ったであろう。


企画段階のノリを予想してみる。


今だに人気の高いジャパンコミックを世界に向けて発信する時!
ダークナイト」や「X-MEN」みたいな大人向けアメコミ映画も評判いいし、「ボーンシリーズ」に代表されるアクション描写の洗練が本格チャンバラアクションを可能にする!
ハードな演出で定評のある大友啓史を監督に起用し、龍馬伝で好評を博した時代描写をベースにリアル路線追求!大人も子供も楽しめる娯楽作品!イケる!


その狙いは外れていない。

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桐島、生きとったんかワレ!−「桐島、部活やめるってよ」−

桐島、部活やめるってよ」を鑑賞。


※「Another」のスチルではありません。



結論から言うと「未熟だった世界が終わり、新たに世界が広がるモノ」の大傑作だ。
そして僕は「未熟だった世界が終わり、新たに世界が広がるモノ」が大好物だ。


当ジャンルのフォーマットは極めて単純で、「ある(狭い)価値観、社会観に縛られていた登場人物が、作品内で描かれる経験を通じて、成長し、世界を違った目線で見つめることができるようになる」という、いわゆる普通のドラマの基本構造そのものである。
「違った目線で見つめることができるようになる」といった描写、展開に重きを置いた作品がつまり(略して)「世界広がりモノ」に属するのだが、これは主に、主人公がその役割を担っている。当然である。


彼は作品内で成長し、そして過去となった世界を見つめる。感慨深く眺め、新たな世界へと羽ばたいていく。
そして、必ず、そこには喪失・別離が伴う。伴わなければならない。少なくとも、過去の世界の喪失あるいは過去の世界との別離が含まれる。
主人公不在では成り立たないフォーマットである。観客は主人公に自らを仮託する。主人公を通じて、新たな世界を目にする。
その前のめり感が充分要素なのである。


しかし、今作「桐島、部活やめるってよ」では、その前のめり感が消されている(残っているが、うまく消されている)。
なのに、静かなダイナミズムを有しながら、登場人物の世界の変容っぷりを、劇的に見せつける。
そのバランスが見事なのだ。


だからこそ、僕は本作を「未熟だった世界が終わり、新たに世界が広がるモノ」の大傑作、と評価したい。
しかも本作においては、世界の広がりは残酷な意味を持つのだ。
以下、ネタバレを含みます。

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