rainfiction

アマチュア映画監督 雨傘裕介の世に出ない日々です。

子どもと魔法 ー小沢健二への期待ー

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真夏日となった2016年5月23日。
小沢健二のツアー「魔法的」初日を2日後に控えて、ツアーグッズのリストが公開された。


もうそんな時期か……と、2016年1月20日になされたツアー告知のことを思い返す。
のちに出版された雑誌「relax」に、小沢健二は短文を寄せた。そこにはこうあった。

それでも、パーティーはまた起こる。都市の一角の灰燼から再生する。小さな不死鳥のように。その不死鳥たちが、都市を飛び交う。不死鳥たちは、ゴシップや、再会や、笑いや、胸がきゅんとする出会いを運んでくる。

いわゆるパーティーは続く。音楽の鳴る夜も続く。胸には期待が宿っている。パーティーへの期待。
今回のパーティーの首謀者は、新たな楽曲と、まだ見ぬアレンジを加えた名曲たちを準備して、ゲストを招き入れるようだ。


我々は期待せずにはいられない。うずうずと、音楽によってひとつに結びつけられるひとときに。


しかしその一方で、こんな風にも思う。
パーティーが終われば、きっとまたしばらくさよならなのだ、と。
余韻が薄まり、日常に戻ってゆく我々を、ホストである小沢健二は見送り、また離ればなれ。決して短くない期間、また四たびの招待が届くのを待たねばならない。
そのあいだ、我々は歳をとる。職を変えたり引っ越したり、子どもを産んだり育てたり。いつまでも若者ではいられない。不死鳥だと思えた自分たちのバイタリティーは薄まる。それでも、いつかまたパーティーの誘いが届くのを待っている。


さて、仮にそれが向こう10年繰り返されるとしよう。
あなたはいくつになっているだろう?決して安くはないパーティーへの誘いを、今と変わらず喜べるだろうか?


小沢健二の偉大なる叔父、小澤征爾氏は先日、指揮するオペラ「子どもと魔法」にてグラミー賞を受賞した。若い頃から世界で活躍し、音楽の歴史を紡いできた存在だ。
彼もまた、パーティーを催す立場の人間だ。
そして自らの表す音楽を次代へ繋ぐ存在だ。


数年前、小沢健二は父となり、今では小さな子どもを育てている。
四年前のライブの時点からの大きな変化のひとつと言える。


「子どもと魔法」。
何やら象徴的なタイトルだ。


僕が小沢健二に今、期待すること。
それは、どうか子どもたちへ、次代へ、彼の音楽を繋いでいってほしい、ということだ。


10年後の我々はきっと今よりずっと老いている。それは確実で落胆すべきことではない。だが、今と同じに音楽を追い続けられているとは限らない。若者のころに抱いたあの情熱はおそらく薄まっている。
そんなメンバーが、ライブ会場を埋め尽くすのだとしたら、僕はなんだか違和感を覚える(もちろん僕もその会場の一人だ)。
音楽の灯火は、その時代の音楽を支え生み出す世代をも照らしてほしい。
勝手にそんなイメージを持っている。


なぜなら、彼の楽曲は、きっとこれからも、若い世代にも響き、聴かれるべきものだと確信しているからだ。
決して一時代的な、流行として消費されていくもの、あるいは権威としてではなく、楽しいものとして、いつでも刺激あるものとして、伝え聴かれるもののはずだ。


先の「relax」に、彼はこうも書いている。

子どもたちには、パーティーに行く責任がある。大人たちにできることなど、パーティーの空間を作ることくらいしかないのだ。

彼の言う「子どもたち」とは誰のことを指すのだろう。うさぎ!に登場するイノセンスと好奇心を宿した精霊のような(現実離れした)子どもたち?
いや、むしろ彼の子どもであり、りーりーの周りに過ごす子どもたちであり、つまり我らの子どもだろう。彼らは大人たちに導かれ、パーティーの場をのぞき込む。いずれ大人たちに混じり、いつかはパーティーを主催するのだろう。
すると、今度は彼らの子どもがまたやってくる。パーティーは続く。不死鳥のように。世代を超えて。音楽のサステナビリティ


小沢健二は父となり、パーティーにそんなイメージを託しているのは明らかだ。大人が子どもに用意したお祭り。自分たちが楽しみ、子どもへ伝える幸せなパーティー。かつての小沢健二も、子ども時代にパーティーに参加したに違いない。「子どもと魔法」を聴いたかもしれない。


今なのだ。
小沢健二の音楽が、次代に受け継がれるようになるタイミングは、今をおいて他にない。
今回の「魔法的」ののちにどのような活動が行われるにせよ、これまでの活動の傾向から、断片的かつ局地的なものになるだろうし、全国ツアーという機会は、前回のひふみよから6年経過していることからも、おそらく数年後になるはず。あるいはツアー自体が今後一切行われない可能性もある。けれど、僕たちは決してもう若くはない。

加えて、小沢健二はもはやスタジオ録音による音源作成、というプロセスをとらないだろうという点も重要だ。ライブに重きを置き、朗読会のような、偶発的な焚き火のような、都市で催される一過性の音楽会やパーティーのような、ライブ形式で音楽を供するスタイルは続くだろう。
ならば、新曲を多く携えた今回のバンド構成の全国ツアーこそ、若い世代へ音楽を繋ぐ最良の、最後の機会だと考える。


次代に音楽を繋ぐ。
具体的にどうすればいいか?


考えるまでもない。簡単だ。
レコードをつくるのだ。
CDでもBlu-rayでもなんでもいい。記録を残して流布すれば良い。偉大な音楽家やジャズミュージシャンがそうしてきたように。未だに魅力を失わないバンドたちがそうしてきたように。
手で触れられて、かたちとして残るもの、すなわちレコードとして、「魔法的」をリリースすればいい。
あとは簡単だ。再生機器さえあれば、どこでも彼の音楽を聴くことができる。子どもたちに聴かせることができる。レコードそのものを受け継ぐことができる。
小沢健二というおじちゃんがつくった音楽、として、語りつぐことができる。


かつての僕らがそうだったように、しかるべきときに、しかるべきミュージシャンがレコードを介して人生のドアをノックし、リスナーの心を奪っていく。
子どもたちから見れば、どんなアーティストもだいたいおじちゃんかおばちゃんだ。
そこに連なるのが、小沢健二というおじちゃんであっても良いはずなのだ。


「魔法的」に参加する子どもは決して多くはないだろう。小澤征爾の指揮するオペラもクラシックも、コンサートの場は大人のものだ。
だが、記録され、パッケージされたレコードによって、音楽は流布される。優れた音楽であれば、数十年後も聴き継がれていくようになる。
「子どもと魔法」。老いと幼なの交じる世界に魔法をかけるには、レコードが不可欠なのだ。受け渡すことのできない極めてパーソナルな電子データではそうはいかない。


長くなったが、小沢健二への期待。
「魔法的」のレコードをちゃんと作ってね。
それに尽きる。


そしたら僕は、これまでのあなたのCDと同じく、ずっと聴いて、誰かにそれを手渡せる。
時間を経ても魔法は消えない。そうして伝わる類の魔法もある。偉大なるおじちゃんたちが子どもに魔法をかけていくのを何度も見てきたし、小沢健二自身も、かつてはそんな幸せな子どもだったはずだろうから。


音楽には魔法が宿る。確実に。
そう信じているのなら、どうか「魔法的」なライブを、そしてそのレコードを届けてほしい。
それを受け取り繋いでいくのは、受け手である我々、つまり大人の責任だ。まかせとけ。


一方的な期待だ。裏切られるなんて(彼については)しょっちゅうだ。10年単位でね(笑)
それでも期待せずにはいられない。記さずにはいられない。
2016年5月25日、「魔法的」ツアー初日に記す。


いつかまた、魔法的な何かがドアをノックする。
子どもがドアを開けると、そこには招待状が挟まっている。
まるでウィンディやアリスやドロシーのように、子どもはそれをおずおずと手にする。それは魔法そのものだ。かつての僕らに与えられた魔法に似ている。
子どもの部屋の棚にはレコード。「子どもと魔法」のとなりに「魔法的」。


そんなイメージ、悪くないでしょう?


今回のライブが、少しでも子どもたち、若者たちに向かうものであることを祈っている。
扉。コンサートホール。ライブハウス。それらに連なるレコード。
ああ、なんて魔法的。