rainfiction

アマチュア映画監督 雨傘裕介の世に出ない日々です。

神の子どもたちはみな踊る~「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」で小沢健二がライブ~

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もはや「俺の小沢健二メモ」と化したこのブログ。


数日前に、3年寝かした「東京の街が奏でる」レポートを公開したばかりですが、また書くべきことが出来てしまいました。


2015年3月29日(日)、春の夜、世田谷文学館で行われていた「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」にて、小沢健二が突然のライブを行ったとのこと。


ライブが始まったであろう19時前後、私はTwitterのタイムラインでそのことを知り、自宅でタイムラインを眺めながら、岡崎京子さんと小沢健二さんの絆に思いを寄せていたのでした。


不肖、私めが皆さんのつぶやきを(勝手に)まとめさせていただいたのがこちら。


togetter.com



信頼できるインサイダーである大山卓也さんのブログがこちら。


d.hatena.ne.jp



だいたいのことは上記を読めば分かると思います。
ざっくりと基本情報をまとめてみましょう。


  • 開演までSNS等でそのことを伝えないように、との注意があった。
  • 居合わせた方はライブを観ることが出来た。
  • 岡崎さん、小沢さんの関係者および知人・友人には事前に招待があったようす。
  • 約70分のライブ。ゲストにはスカパラ沖さん、GAMOさん。基本は弾き語りのミニマムな編成。
  • 岡崎京子さん本人はいらしていないが、録画をご本人に届けるよう。


そののち、著名なアーティストや漫画家さん、ライターや実業家の方々に至るまで、Twitterで情報を発信されておりました。


あれ、なんで僕のところには招待状が来なかったんだろうね……。


本ライブの趣旨として、やはり「岡崎京子の『王子様』」である小沢健二による「岡崎京子」のためのライブ、であったことは疑いの余地がありません。


また、キャパシティも限られ、本来音楽ライブには向かない場所であることからも、不要な混乱を避けるために、極めてシークレット、身内向けのささやかなライブであったことが想像されます。
確かに、Twitterで告知したとしても、それだけで100名くらいは押し寄せそうですからね。
戒厳令を守った皆さんに拍手です。


では、なぜライブだったのでしょうか。
朗読でも「おばさんたちが案内する未来の世界」の上映でも良かったはずなのに。
やはりそこは、客体としての小沢健二ではなく、主体としての、アーティストとしての小沢健二で臨むためであったのでしょう。


小沢健二岡崎京子の蜜月は、改めて思い返すまでもなく、濃厚なものでありました。
小沢健二のライブに熱狂していた岡崎京子の姿。90年代のポップ・カルチャーの重要な存在であったお互いがお互いについて言及し、交流し、刺激を与え合った様子は、90年代に多感な青春を過ごした我らの記憶に焼きついております。


小沢健二は音楽で、岡崎京子は漫画で「本質」に向き合い、「本質」を表現しようとしていました。故に多くのファンを獲得し、今も聴き継がれ、読み継がれているのだと思われます。


二人の蜜月は、「表現」における共感性と、お互いがお互いに求め、高め合った表現の良質さとエンターテインメント性によって築かれ、そして我らが知り、定義し得るところの「同時代性」によって保たれたと言えるでしょう。
そしてそれは「友情」という名を冠するにふさわしい関係性であったはずです。
時に「王子様」「仔猫ちゃん」的味付けを振りまいて、「ボーイズ・ライフ」と「ガールズ・ライフ」を共に「戦場」の中で表現し続ける表現者として。



そのような、戦友たる関係であった二人が、2010年代の今、お互いの表現に敬意を表し、心を通わすべき場があったのだとしたら、小沢健二は音楽・歌で応えるより他ないのではないでしょうか。



今回のライブは、岡崎京子によって望まれたものかもしれません。
もしそうであったのであれば、同時代を生きる表現者小沢健二へ差し出された、もうひとりの優れた表現者である岡崎京子の心に、どのようにして応えましょうや。



結果はご存知のとおり。
主体として、小沢健二は歌を歌ったのでありましょう。心を込めて、心を伝えるために。
きっと我々の誰よりも、岡崎京子の絵に囲まれて歌う小沢健二の姿を観たかったのは、岡崎京子自身であったでしょうから。


まったくの推測に過ぎませんが、そのように考えてみるのも一興かと存じます。

僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。


※「神の子どもたちはみな踊る村上春樹 P.112抜粋

どこまでも伝えあうお互いでありたいと。
勝手ながらも、お二人の関係を、そんな風に思ってしまう次第です。


さて、「岡崎京子」について語るには、かなりの気合と時間をかけて臨まなければなりません。
なので簡単にメモしておくことにします。


私自身、二人との出会いは完全同時期(中二)であり、ほぼ同時にガツンとやられてしまったので、私にとってのサブカルスーパースターの位置にお二人は鎮座ましておられます。


93年の「CUTIE」には、小沢健二のファースト・アルバムのインタビューと、「リバーズ・エッジ」が掲載されておりました。記憶が正しければこの回だったような。


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「日常に潜み、進行する」グロテスクさと悲喜劇を活写した「リバーズ・エッジ」。
作中では、ウィリアム・ギブスンの詩が印象的に使われます。


「平坦な戦場で 僕らが生き延びることを」


こうした一文が、後日、小沢健二の「戦場のボーイズ・ライフ」というタイトルに連なり、今回の展示会のタイトル「戦場のガールズ・ライフ」へとリメイクされていきました。


つまり、この詩のフレーズを発端として、倦んだ成熟と甘い破滅に満ちた「90年代を生きること」は「戦場で生き延びること」と定義され得たのです。


読者とリスナーは、自らの日常を緊張感に満ちた戦場と定義することで、退屈な日常に何らかの意味を付与することができました。その陽の側面を担ったのが小沢健二であり、陰の側面を担おうとしたのが岡崎京子であったのでした。


リバーズ・エッジ」から「ヘルター・スケルター」に至る岡崎京子の作品群は、いずれも不穏なモチーフに溢れています。破滅と自傷、暴力と薬物とセックス、死と再生。コマーシャリズムと人間の尊厳の対立。
これは、当時の岡崎京子が成し得た偉業、すなわち、20世紀末において飽和しようとしていた、破滅への期待と予感の表現でした。


しかし、これらの作品は多くの読者を惹きつける一方で、あまりにも先鋭的でありすぎたのかもしれません。岡崎京子の表現は、当時の小沢健二の先を行っていたのだとしたら。その先見の明に舌を巻くと同時に、やはりそれはこれまでの自身の表現を揺るがしかねない、危ないバランスであったのかもしれません。いわゆる狂気です。


しかし、「UNTITLED」という単行本に収められた「万事快調」という作品こそ、岡崎京子の新たな「戦場」を提示し得た作品であったと、私は評価します。


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3人兄弟のそれぞれの日常が描かれるこの作品。極めて岡崎京子らしい作品です。日常における物語性を軽やかに描いたこの作品は、初期の作品群にも似て、コミカルな側面もあります。描かれるのは「日常」という名の「戦場」です。


そこでは、登場人物たちの「実感」が描かれます。久しぶりにハイヒールを履いたあとの足取り、○麻を探して山登りしたあとの疲れ。なぜか大ゴマの「ユリイカ!」(意訳)など、それまでの岡崎京子作品で描かれた、ハイファイでグロテスクな強度とは異なる日常の実感です。


ここで、岡崎京子は自らのバランスを整えようとしたのではないでしょうか。
銃弾のような破滅がきらめくフィールドから、蹂躙を経たのちのフラットな日常へ。そこで得られる生活者としての実感を、新たに物語に込めようとした。「万事快調」からはそんな姿勢が読み取れると思います。


だとしたら、岡崎京子の描こうとした戦場は、今の小沢健二の住まう「日常」とクロスオーバーしうるのではないか、と推察を重ねずにはいられません。「東京の街が奏でる」の最終日、「日常へ戻ろう」と小沢健二は言ったそうです。彼の最近の言説からも、日常を大事にしていること、街々の日常への目線を保っていることが読み取れます。


岡崎京子が描いていこうとした「戦場」は、緩やかに変わろうとしていた。それはおそらく、今の小沢健二が語ろうとする日常に近しく、ボーイズもガールズも等しく実感を伴って生きる日常だったのではないか。そしてそこは、桜の芽吹く世田谷文学館のような場所でも、ニューヨークの片隅でもあり得る、つまり我々のいる時間と場所でもあるのだ、と言えるのではないでしょうか。


今になって、岡崎京子小沢健二を並べてみることの面白さ、そして、岡崎京子という表現者の新しさを感じずにはいられません。


本棚から引っ張り出して、ページをめくって、その度に何度もぐっと来る。そんな作家なのです。



と、全然軽くなりませんでした。ここまで書いておいて何ですが、なんだこの文体キモい。
そもそも岡崎京子展にすら行ってないし公式本もまだ買ってないヤツが何言ってんだ。


というわけで、僕自身もちょっと落ち着こうと思います*1。年経て獲得した日常へ戻ります。


戦場は今だ広がっています。それは公然の秘密です。あの時代の蜜月を過ごした二人は、日常の中にいるのです。僕らの好きな二人のままに。
今回分かったのはそういうことです。神の子どもたちはみな踊るのです。



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*1:馴れないことして疲れた。